備中高松城の戦い

 

今日も絶好調!!総社店竹浦です。

総社市は自然に囲まれ、最上稲荷や鬼ノ城など観光する場所がたくさんあります。

休みの日にどこか観光するところはないかバイトの子たちに聞いていると、

「高松城跡がありますよ」とのこと。

よし!!高松城跡にレッツゴー\(^o^)/

車で10分弱アッとゆうまに到着!!

 

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備中高松城の戦いとは

天正10年(1582)年3月毛利氏追討のため姫路城を出発した羽柴秀吉は、宇喜多秀家の加勢を得て、4月上旬に備中へ攻め入った。迎え撃つ毛利勢は、清水宗治・月清入道・中島大炊助らが守る備中高松城を中心に備前国境に近い7つの城に兵を籠め、小早川隆景・吉川元春らも後詰めとして出陣し、総師毛利輝元も猿掛城(矢掛町・倉敷市境)まで陣を進めた。宮路山城・冠山城・日畑城を攻め落とした秀吉は、高松城を包囲したが、広い堀と湿田に囲まれた同城を攻めあぐねた。折からの大雨で増水した足守川を見た黒田官兵衛が水攻めを献策、秀吉は延長3kmにわたる堤防を築いて水攻めを敢行するとともに織田信長に加勢を求めた。安土城を出て備中に向かう途中、京都の本能寺に宿泊した信長が明智光秀に討たれたことを知った秀吉は、信長の死を伏せて6月4日急遽和議を結び、宗治らの切腹を見届けるとただちに高松から引き揚げ、明智光秀を討って信長の後継者としての地歩を固めた、高松城攻めは秀吉の運命を大きく変える戦いであった。

 

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こちらは平成10年に(1998)年4月から5月にかけて水攻め築堤跡の調査が行わ

れ実際に基底部や盛り土の種類などが分かったそうです。

 

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高松城跡の資料館の中にある模型です。とてもよく出来ており見入ってしまいました。

こんなのが家にあったらなって男だったら思ってしまいますね。

 

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この水攻めの策 は中国の春秋時代に晋の智伯が晋陽城を水攻めしたことからヒントを得たと考えられ、低湿地にある沼城の利点を逆手に取った、まさに奇策です。

ほんとに歴史は色々なことを学ばせてくれます。優秀な武将ほど頭を使ったり、頭脳明晰な部下を持っているものです。

頭をつかい考えることがすごく大切だと改めて感じました。

いいリフレッシュができました。明日からもがんばるぞ\(^o^)/