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京田辺店堀内です。
今回は京田辺店の家紋について紹介させていただきます。
この家紋は、鎌倉時代末期に天皇の為に挙兵する事を約束した楠正成が、皇室の御紋章である菊門を与えられ、その後に、天皇と同じ菊の紋を持つのは畏れ多いとして、菊の上半分に水の流れの図を添えて「菊水紋」となりました。楠家は水神を祀る神社の有力な氏子だった為、水が採用されたそうです。
この楠正成は、河内地方の新興の土豪(地方豪族)で鎌倉幕府に不満をもつ民衆から多くの支持を集め、民衆の力を動員した予想もつかない奇襲作戦を得意としていました。幕府が8万の大軍で攻め込んできた際も、わずか千人の兵と千早城に籠城し、兵糧攻め(敵の食糧などが底をつくのを待つ戦法)を仕掛ける幕府軍に対し、敵軍の補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つ、千早城そのものを囮にする前代未聞の戦法をとりました。山中で飢餓に陥る幕府兵にに対し、抜け道から城内に食糧が運び込まれていた正成軍は、三か月たっても無傷で8万の幕府軍を撤退させました。正成が民衆の力で千早城を守り抜いたことが火種となり、鎌倉幕府は滅亡します。
この後、正成は新政権で異例の出世をします。しかし、鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課す新政権から民衆の心が離れていくのを感じていた正成は、民衆の支持を得ている対抗勢力との和睦を進言しますが、聞き入れてもらえません。
失意の中、敵軍3万5千、正成軍700、戦力差50倍の戦いに向かいます。この決戦前、正成は遺書とも思える手紙を天皇に書いています。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は一族、地侍、誰もこの正成に従いません、正成、存命無益なり」正成はこの戦いで敗れ弟と共に自刃します。正成は太平記に「智・仁・勇の三徳を備え、命を懸けて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者はいまだにいない」と記されています。
今回楠正成を紹介しましたが、正成の生き様から学ぶことは多いように感じます。常識を覆す発想力、民衆を味方につける人間力、大軍を前にしても動じない心、そして自分の信念を貫く姿勢はどれも見習いたいですね。
そんな正成の家紋を掲げる京田辺店もお客様あってのお店ですので、お客様の心が離れてしまえば必要とされなくなってしまいます、お客様にずっと愛されるお店で居続けられるよう日々精進してまいります。