自捨新生(後編)

1473703729238いつもブログをご覧頂き有難う御座います(^O^)/

総社塩元帥の山本です(≧▽≦)

暑い日が続きますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか

先月の表題の前編では、私の名札に明記しております自捨新生とは、『己を空しくし、人の犠牲になる』という意味とお伝えをさせて頂きました。ただ、己を捨てる事は自分を失う事とは違いまして、犠牲という点で例をご紹介したいと思います。

私達の身近にある調味料、塩、砂糖が有ります。塩は塩の辛さ、砂糖は砂糖の甘さが有り、その二つを混ぜると、塩は塩、砂糖は砂糖という独自の本質は失ってしまいます。独自の本質を失っているのですから犠牲を払っているように思われますが、しかし、「美味い」という昇華した姿になって存在しています。塩として砂糖としての我は失われたかと言うと、分析してみれば依然と内在している事は解ります。

米と水にしても同じ事で別々に食べていたのでは美味しくはありませんが、米に水をプラスして炊く事で、ご飯と言う美味しい物が出来上がります。それまでの米でも、それまでの水でも無くなって、ご飯という美味しい物に昇華しています。

これは目に見える形での例ですが、これを人間に当てはめると、我と言えば自己愛になるかと思います。その物差しで、人を測り、仕事を測りながら全力で働かないで自分が満足する行動しかしないような人が自己愛の人に当たるのではないかと考えます。

そのようにならないようにするにはどうしたらいいのか…自分自身が未熟である事をよく自覚しておく事、たった1人では仕事が出来ず、周囲の協力がなければお客様に満足して頂くその前に何も責任が果たせなくなると理解しておく事、自己愛の反対は利他愛ですから、自分の周囲にいる人を大切にすると心掛けて行く事、その中で責任を果たす為に自分がどうしたいのかを伝えたいと思います(‘◇’)ゞ

最後までご覧頂き有難う御座います。